物ごころついたときから、人には見えないものがよく見えた。

妖精とか精霊とか生霊とか幽体とか、それらはなんだかよくわからなかったけれど、

「そこに見える」と言えば、大人たちは「あらまあ…」と感心してみたり、

子供たちは、僕も私も、と、競うようにそれらを探しては見当違いの所を示して、悦に入っていた。

家族の中で、それらを共有できたのは、兄のヒイロだけだ。

本当に、「見える」ということを解ってくれているのはヒイロだけだった。

 

 

その兄が数年ぶりに帰ってきて、マシロはひどく気がふさいでいる。

「今はもう見えない」と言われたとしても、「今でもまだ見える」と言われたとしても、

どちらにも同じだけ失望するような気がして、今も村に滞在しているヒイロとは距離を置いている。

そんなマシロの態度に、母がどうしたの?と声をかけてきた。

「いつもヒイロが帰ってきたらまとわりついて離れないのに」

そうからかう声は、母だからなのか、ちっとも嫌じゃない。

嫌じゃないけれど、でもやっぱりからかわれていることに反抗しないのも、…子供っぽくて嫌だ。

「別に、話すことなんかないし」

「あら、そうなの?」

食事が終わったあとの食器洗いを手伝うために、マシロは、乾燥させた草で汚れをふき取っていく。

汚れをぬぐった器をマシロから受け取って、母が水洗いをするのがいつものやり方だ。

「前は、あっちの小さい人は何着てる?とか、あっちに立ってる人は男?女?とか聞いてたのに」

もうそういう遊びはしないの?と言われて、だって、と口ごもる。

遊びじゃないし。

それは見えている自分と兄との、「本当」の、確認だ。

本当にそこにいることを確認しあって、初めて、自分が正しいということに安心する。

それは二人だけの、特別な儀式だった。

だから、それはもう出来ない。

だって。

「だって、見えないんだもの」

マシロの口からでた言葉は、隣にいた母だけでなく、マシロ本人をも驚かせた。

そうだ。見えない。もうどこを見ても、いない。

マシロには当たり前だった風景が、今ではもう思い出せなくなるくらい。

そうしてそのうち思い出せなくなるのだろう、そんな予感さえもしている。

それでいい。それが、いい。だって、見えない人の方が当たり前なんだから。

そう解ってても誰にも言えなくて、言いたくなくて、ただ兄を待ち続けていたはずなのに。

「見えなくなっちゃったの?いつ?昨日?一昨日?」

ただマシロを案じるように話を促す母の優しさが後ろめたくて、マシロは自暴自棄に吐き出す。

「違うよ、もっとずっと前だよ、もうずっとずっと前から、全然見えないよ!」

そう吐き出して、しまった、と全身で寒気を覚える。

もうずっと?と、マシロの発言を確かめる母の気配が怖い。

「え、えっと、あの今のは、えっと」

「ずっと見えないってどういうこと?マシロ?ついこないだも、アサギとケンカしたんじゃなかった?」

そこになんとかサンがいるから勝手に扉閉めないで!!とか言ってたわよね?

と、にこやかに先日のマシロの暴言を問い詰めてくる。

「あ、ああー、あれはー、そのう」

「そもそも、ひきこもりを始めたのも、見えることを証明するためだったわよね?」

違ったのかしら、おかしいわねえ。

と、普段となんら変わりないおっとりした調子で、めちゃくちゃ怒っている。

母は、…父もそうだが、滅多に怒らないし、叱らない。いつもにこにこして、好きにしろ、という。

怒ったり叱ったりたしなめたり、というのは、姉のアサギの役目だ、と思っていた時期もあるくらいだ。

それくらい、両親のしつけはゆるっゆるで育ってきた子供たちだったが。

本気で怒ったときの両親の恐ろしさは、大きくなった今でも、膝が震えるほど。

だから、最速で謝ることしか出来ない。

「ごッ、ごめんなさいッ、ゴメンナサイッ、嘘ついてましたッ、ゴメンナサイッ!!」

身をすくめるようにして謝り倒すマシロに、母が最恐の笑顔で迫ってくる。

「嘘をついたのは」

ああ、お陀仏。

「こーのーくーちーかー」

夕闇が差し迫る刻限に、地獄の悪鬼でも召喚するのかと言わんばかりの恐ろしげな声音で。

母の両手が、マシロのほっぺたをつねり上げた。

「いひゃいっ、いひゃいっ、はーひゃん、いひゃいッ」

子供の時、軽い嘘をついただけでがっつり怒られた。その時も今も変わらない、変わらず、…痛い。

マシロの本気泣きが入った懇願に、母の手が離れた。

きりきりとつねられた頬を両手で押さえてうずくまる。もう大きくなったのに、涙が出た。

痛くて泣いているのか、怒られたことに対してか、嘘をついてしまったことか、それさえも理解する前に。

「おばかさんね、マシロは」

と、ぎゅうっと抱きしめられた。

母にも、父にも、嘘だけはつくな、と厳しく言われていた。

うそつきは泥棒の始まりだ、とも言われた。

嘘をついただけでこの世の終わりかと思うくらい怒られたのに、泥棒なんてしちゃったらどうなるんだろう。

そう考えただけで怖くて夜も眠れなかった。

だから怒られた時はいつも母に抱きついて眠った。その背中を父が包むように寄り添ってくれた。

その時と同じぬくもりがあって、マシロは母の腕の中で、本当にバカなことをした、と思った。

「どうしてそんな嘘をついたの」

「…ばかだから?」

「違うでしょ。嘘をついたおバカさんは今、母が退治してあげたでしょ」

そういって母が苦笑する。

あ、これ、退治なんだ。ていうか、すっごく痛いのはアタシなんだけど…。

そう考えていると、母の手がマシロの手に重ねられて、そのまま顔を上げさせられる。

「嘘なんかついたら、本当のマシロがかわいそうでしょ?」

「…本当の、アタシ?」

「不思議なモノ。見えなくなったんでしょ?そっちが本当のマシロなのに、ずっと見える見えるって言ってて」

うん、言ってた。

「アサギやコズミともケンカまでして」

うん、した。いっぱい。

「一人ぼっちになって嘘つき続けて、マシロの本当がどんどん無くなっていって可哀想よ」

「…母ちゃん…」

「どうしてそんな、自分で自分をいじめるみたいなことするの」

そうか。アタシ、自分を苛めてたのか。だから、こんなに苦しい…。

苦しかったんだ。

 

 

「もう本物のマシロに戻った?」

子供みたいにわんわん泣いて、はれぼったい目が重たい。

鼻水をかみまくって鼻は痛いし。何事かと様子を見に来たチビたちに笑われるし、最悪。

最悪だけど、気分はすっきりしていた。

「うん」

母が水で洗った器を受け取りながら、今度はマシロが布で水滴を拭いていく。

改めて、嘘をついたのはどうして?と問われて、今度は素直に考えることができた。

「アタシ、不思議なものが見えるの、自慢だった」

誰も見えてない。たまに本当に見える子もいたけれど、少しずついなくなってしまった。

何もないこの村で、ただただ空と岩山と、風と、子供たちと、それを見守る大人たち。

今はもうそれだけが、マシロの世界の全て。

「何もなくなっちゃった」

そう、小さく呟けば、いっそう寂しい。

そのマシロの言葉をゆっくりと吟味するように黙っていた母が、そうねえ、と目を閉じた。

「見えるものが見えなくなるって、こういうことかしら」

私はこんな風にしか解ってあげられないけれど、と母が目を閉じたままマシロを見る。

「そうね、マシロがそこにいるのに見えないんだとしたら、それは寂しいわね」

寂しいけれど、声も気配も解るから、マシロの寂しいのとはちょっと違うかしら。

そう言った母が、困ったように笑う顔も、薄闇にはっきりしなくなってくる。

寂しいの?と問われて、反射的に首を振っていた。振って、薄闇に気づいて口に出す。

「違う、寂しいとかじゃ、ないよ」

そうだ。不思議なものを友達のように慕ってたわけじゃない。

ただそこにある風景だっただけだ。

なぜなら、ヒイロが言っていたから。

『怖いものじゃないよ、マシロに悪さをするようなものじゃないから大丈夫』

ただ、そこにいるだけだよ、と、今の自分よりずっと小さい頃の兄はそう言ってくれた。

そう言って、マシロを守ってくれていた。

その兄がいなくなった。

度々帰ってきて安心させてくれたけれど、いつしかいない時間の方が多くなった。

それでも信じ続けられたのは、この不思議なものは「本当」だということ。

それが、消えていく。

少しずつ、気がつけば少しずつ、そういえば、いつからだろう?って考えないと解らない。

考えても、始まりはなんだったのか解らない。

もっと最近では。

「アタシ、本当に見えてたのかなって、解らなくなってる」

見えてたと思う。

それは確かに。だって、一人じゃない、兄と同じ感覚をずっと共有してきたんだから。

でも、…兄も見えなくなっていたら?

兄から届く手紙は村での様子を尋ねる内容から、村の外の世界を知らせてくるようになった。

不思議な物も、誰の目にも明らかにとらえられる不思議な物が届くようになった。

確かにそこにあるもの。

そこにあって、見えないもの。

どちらが本当なのかと尋ねられたら、それに抗うことができない自分。

そうして、嘘にされていく、マシロ自身。

「…そっか」

マシロの独白に耳を傾けていた母が、マシロの頭を撫でる。

「マシロは、ちゃんと母の言うことを聞いて、本当を守ろうとしたのね」

「え?」

「見えていた真実が嘘にならないように、見えなくなっても見えるって言い続けることで」

本当を守ろうとしていたんでしょう?

その母の声は、優しい。

嘘をついていたマシロを、かばうような含みのある声。それが意外で目を瞬かせると、

でもね、と頬をつつかれた。

「やり方を間違えただけね」

今度からは嘘をつかないといけなくなるまえに、誰かに相談してね、と念を押され。

「私も鬼みたいに怒るのは良くないってわかったわ」

と、自省するような母の言葉にあわてる。

「よくなくないよ、嘘ついたの、アタシが悪いんだもん」

そうだ、アサギとコズミとムラサキにも悪い事をした。

なんかもう激情のままに、ムキになって対立することだけが目的のようになっていた。

「あとで、アサ姉たちにも謝るわ」

「まあ、マシロが前より素直になったみたいだわ!」

大げさに驚く母に、それでもやっぱり、…憎めないな、と思う。

「だって、退治してもらったから」

大泣きしたこととか、どこか甘ったれな自分とか、そういうものが少し照れくさかったけれど。

母だけは、変わらず自分の味方だと思った。

嘘をついたことを、周りの迷惑や影響を咎めることよりも、「マシロがかわいそうでしょ」と、

言われたことが一番嬉しかった。

それは口に出せなかったけれど。

「そういってくれると嬉しいわ」

と、母に抱きしめられた。

父ちゃんにも悪い事をした、と言えば、引き籠って一回り成長したわね、と褒められた。

「全力で籠って何かを得られたのならそれでよしよ!私も一緒に謝ってあげる」

マシロがごめんねって一言いうだけで父ちゃんめろめろよ、そう言って軽く請け負う母と、

家まで、月夜の道をゆっくり歩いた。

 

「明日、ヒイロと話してごらんなさいな」

 

怖気づくマシロの背中を押すように、母の声は優しい。

もう、嘘をつかなくていいように。

きっとヒイロは、マシロを守ってくれる。

それはマシロを守るための、本当の真実だから。

ちゃんと話をしてごらんなさい。

 

月明かりの下、炎がゆらめく広場の向こうに外の世界の仲間といる兄の姿を見て、

マシロはただ頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

↓やばーい!思ったより長くなった!(またか!)これだから思春期は…後篇に続く!のぽちっと♪

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